保育士が知りたい児童家庭福祉の成り立ち

保育士が知りたい児童家庭福祉の成り立ち

保育士が知りたい児童家庭福祉の成り立ち

(1) 児童救済の歴史

 

現代、福祉国家と呼ばれているのはイギリスです。

 

しかし、そのイギリスでも位、中世では囲い込み運動による浮浪者が増加するなどし、
産業革命期には児童が安価な労働力として搾取されたという悲惨な時代がありました。

 

農民は土地から追放され、領主からの保護を失い、生活に困窮し、
多くの浮浪貧民が溢れ、孤児や貧困児童の数が増えました。

 

エリザベス救貧法

 

1601年、イギリス絶対王政期エリザベス1世の時代、
世界初の救貧法として「エリザベス救貧法」が制定されました。

 

ですが、「エリザベス救貧法」は、救済と言うようなものではなく、
社会秩序安定のための抑圧を狙いとしたものでした。

 

そして、徒弟制度によって、貧困児童に労働義務を強制しました。

 

エリザベス救貧法は、エンクロージャーや凶作によって増えた貧民に対応するために、
貧民を労働力の有無によって区分しました。

 

具体的には、労働能力のある者には強制就労をさせ、
労働能力のない者には扶助を与え、
児童は徒弟制度に出すという具体的な方策を打ち出し、
児童の場合、押さない乳幼児は「無能貧民」として扱い、
浮浪者や病人等と一緒に不衛生な施設に収容しました。

 

そのため多くの乳幼児が亡くなりました。

 

このようにエリザベス救貧法は、
一見評価すべき点はなかったと思ってしまう部分も多いのですが、
児童に就労を斡旋し、教区徒弟という形で自活の道を開いた事は評価されています。

 

ただ、 同時に児童の労働搾取につながった事や、
貧窮児童と非行児童が混同された事など、問題点が多かったという部分もあります。

 

産業革命期の児童労働

 

産業革命時代になると、機械化と工場化が進み、
安価な労働力として、児童が工場に送り込まれる様になりました。

 

一般的には、4.5歳になると子ども達は奉公に出され、
孤児は労役場に収容されました。

 

1722年、労役場テスト法が制度化されると、
孤児や貧困児童は、救援抑制を目的にロンドンを中心に普及した収容施設、
「労役場」で集団雇用されました。

 

「労役場」は、児童にとって徒弟奉公以外の働き先となっていましたが、
劣悪な労働環境の中で、伝染病や栄養失調でなくなる子も少なくありませんでした。

 

あまりの児童の参上に、イギリス議会の児童労働調査委員会から
将来の労働力の枯渇を案ずる声があがり、
これを受けて1782年のギルパート法では、児童保護の色彩が増しました。

 

そして、1795年のスピーナムランド制では、家族員の数に応じて
補助金が増額されるようになりました。

 

このように、徐々に児童に対する本当の意味での「救済」が講じられるようになり、
それまで、「救済」という名目で労働を強いていた事に対し、
社会から見直しの声が高まるようになりました。

 

以上のような流れの背景により「徒弟法(教区徒弟の健康及び道徳の保持に関する法律)」が
1802年に制定されました。

 

「徒弟法」では、児童労働に関して、児童の1日の労働時間を12時間以内にすること、
男女による宿舎の分離、宗教教育の実施等があげられ、
今まで大人の従属物、生産力として児童を見ていたことに関して反省し、
保護すべき対象として児童の労働を帰省する見直しがされました。

 

ただし、この「徒弟法」は、救貧法の改正という性格を持ち、
同時に工場法の前駆的形態ではあったものの、
まだまだ不完全であり、改正を要するものでした。

 

(2) 18世紀の児童救済

 

博愛事業の時代として知られる18世紀は、
一般市民の間にも、工場における過酷な児童労働に対する人道主義的反動が広まっていました。

 

そして、18世紀の博愛事業は、中世の宗教的な動機を発端とする慈善事業とは違って、
中心は新興ブルジョワジーであり、
弱者への哀れみを原動力とする個人の自主的な活動でした。

 

この慈善学校活動が徒弟学校、職業学校へと発展し、
教育の機会提供への運動に至りました。

 

保育士になるためにはこれくらいは知っておかなければいけないそうです。


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