保育士が知りたい児童家庭福祉の成り立ち

昭和以降の児童家庭福祉

昭和の戦災孤児に対する児童家庭福祉

太平洋戦争に敗戦した日本。

 

戦後の混乱が頂点に達した1945年ごろ、
親を戦争で奪われた孤児、浮浪時、自らも障害を負った子どもなど、
生きていくために盗み等をせざるを得ない子ども達が街に溢れ、
「狩り込み」が行なわれるなどして大きな社会問題になりました。

 

「この子らを世のひかりに」と言う言葉で知られる糸賀一雄は、
終戦後1年で近江学園を創立し、
戦災孤児と重度の障害児との統合教育を世界に先駆けて実践し、
教育的効果を発揮しました。

 

政府は、戦災孤児への救済対策として「(旧)生活保護法」を公布し、
浮浪児童の発見と保護に、緊急課題としましあ。

 

しかし、治安の維持を目的とした「狩り込み」を手段とした保護は
一時しのぎに過ぎませんでした。

児童福祉法と児童憲章

貧困の児童だけでなく、幅広く一般の児童の権利を認める児童福祉法が成立したのは1947年。

 

児童福祉を憲法のなかに位置づける性格を持つ児童憲章が制定されたのは1951年の事です。

 

この頃になると、東京都立保育園の保母達が、
アコーディオンやタンバリンを持って、子どもたちが集まる場所で
「野外保育をはじめました。

 

いわゆる青空保育です。

 

一方で、駐留アメリカ人兵士と日本人女性の間に生まれた混血児の福祉対策は遅れ、
混血児童問題は、講和条約が発効されてから社会問題となりました。

 

全国に20万人いるといわれた混血児童に対し
援助は及ばない状況が続きましたが、
沢田美喜がエリザベス・サンダース・ホームを開き、
混血児の養育にあたり、ブラジルに農園をひらきました。

豊かな時代の日本の保育

国民の生活が豊かになった1960年代。

 

1961年には「児童扶養手当法」、1964年には「母子及び寡婦福祉法」、
1965年には「母子保健法」が公布されました。

 

3C時代(「カラーテレビ」、「クーラー」、「マイカー」)に突入した
豊かな時代の日本ですが、女性のパートタイムという就労形態が始まり、
女性の雇用を促進する動きが高まりました。

 

女性の社会進出が進み、働きながら子育てをしたいという女性のニーズが増大。

 

1964年の母親大会では、「ポストの数ほど保育所を」と言う
スローガンを基に、保育所運動は全国に広がりました。

 

しかし、この動きに反し、徐々に少子化が進んでいったのです。


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